予期不安、気にする価値もないやつ。

「自意識雑記坐禅」では、文字通りの雑記、俺の自意識の揺れをそのまま吐き出している。つまりほとんどの人にとって、一読の価値なし。そう言う感じで進めていく。ティクナットハン師匠が解釈されたとされるサティパッターナ、即ち気づき、mindfulness といったことに関しては、「コークシリーズ」で連載していく。

 

今日の雑記で書きたいこと、それは自意識の揺れに他ならない。やはり、遠出を前にして、自意識揺れがち。この揺れ、つまるところ予期不安。ただ、長い年月この厄介な病気に悩まされた結果、潜在的には、と言うのが適当なのかわからないが、本当のところ、恐怖は克服している。自意識の揺れから、擬似パニックを起こすことはあるけど、正直予期不安の範疇を出ないものが多い。たとえ発作を起こしたとしても、薬がそれを抑えてくれる、という知識が刷り込まれている効果もあると思う。結局、俺が不安を予期するとき、ナラティブで言うところの、天井の隅に悪魔が張り付き俺を苦しめようとしているとき、トラウマの幻覚を見せられているのだ。過去だ。しかもうんと昔の。小学三、四年生だった。そんな昔のことだが、嵐のようなあの恐怖感、しかも今やその本質はなく、擬似的なそれでもって心を掻き乱す。だから、後悔、不安、恐怖、恨み、ネガティブで死にたくなるような感情が、あの時見た景色や環境に投影される。だから、本当のことを言えば、臨海学校も、学校の教師も、不本意な空腹で締め付けられる消化器の痛みも、集団生活も、遠出も、俺の感情を直接揺さぶることなんて、今も昔もあり得ないのだ。予期不安は、どこまでいっても実態がない。もったいない。旅行なんかに行こうとすると、どうしてもそれがチラつくんだけど、もったいない。気にする価値もないな、と割り切って、楽しんでしまえばいいとおもう。残念だけど、もういない。怖がっていた自分も、怖かった記憶も、もう過去なのだから。