実験1 「沖縄コザにて」

 「実験」のカテゴリーでは、俺が予期不安を感じそうな環境や事象に際して、それ自体を実験と捉え客観的に考察し、言語化したものをコレクションしていく。特に不安を感じる傾向が高いんじゃないか、という恐怖心を抱きがちな、物理的な移動や、人間関係による自意識の揺れ、緊急事態が生じることへの不安がテーマになることが多いかと思う。その環境の中で、やはり禅の精神、「いまここ」を忘れないこと、「ああ、これが起きるのではないか、と言うことを不安に思っている俺がいるな」という客観視ができることを良い兆候の基礎として扱っていく。これは心が揺れそうな時よく思うことだが、自分の頭で起こっていることを、とかく世界の全てだと勘違いしすぎだ。予期不安を感じる俺はもちろん、世界中の誰もがこの勘違いの中で生きていて、それに気づかない者、気づかないことで悩み苦しみ妬み、誰かを憎しむ者も多くいる。

 俺の小説の命題はいつもこうだ。自分の頭で考えていることは、世界の全てではない。息を吸ってみる、と鼻腔を空気が通っていきまた戻っていく。この流れが繰り返される器官の上方に、とても小さな脳があり、俺らが世界の全てだと思っている景色は、その小さな箱に投影された映像でしかない。その上には果てしない空が広がり、脳みそは点ほど小さい。悲しい思い出、人や物への執着、憎しみや怒り、不安や葛藤を取り巻く思考、全てが脳を直接揺らすようなパワーを持っていて、とてもセンセーショナルで映像化し易い、あるいは感覚的な再現性が高い。だから、これが世界の全てだ、と一人の人間をジャックすることはとても容易いのだ。しかし、忘れてはいけない。それは小さな箱の中で上映している、古い、悪夢のようなものさえある、取るに足らない映像なのだ。

 息を吸う、空気が流れていく。いまここ、しかないのだ。明日、明後日に安心がある、などと考えてしまったら、そういう俺がいるなあ、とまた即座に客観視に切り替える。この繰り返しこそ、俺の積み立てていく実験に他ならない。

 

 前置きが長くなったが、今回の実験は沖縄、コザ。東京から遠く離れた島国だ。物理的な距離はかなりある、予期不安も多少あった。いやいや、だからそんなものは存在しない。ここでやりたいことはたくさんあるのだ、ミックス、混沌、カオスの街だ。死んでない、生きた本物の街だ。沢山のインスピレーションを得て、いまここを生きてこよう。

 

予期不安、気にする価値もないやつ。

「自意識雑記坐禅」では、文字通りの雑記、俺の自意識の揺れをそのまま吐き出している。つまりほとんどの人にとって、一読の価値なし。そう言う感じで進めていく。ティクナットハン師匠が解釈されたとされるサティパッターナ、即ち気づき、mindfulness といったことに関しては、「コークシリーズ」で連載していく。

 

今日の雑記で書きたいこと、それは自意識の揺れに他ならない。やはり、遠出を前にして、自意識揺れがち。この揺れ、つまるところ予期不安。ただ、長い年月この厄介な病気に悩まされた結果、潜在的には、と言うのが適当なのかわからないが、本当のところ、恐怖は克服している。自意識の揺れから、擬似パニックを起こすことはあるけど、正直予期不安の範疇を出ないものが多い。たとえ発作を起こしたとしても、薬がそれを抑えてくれる、という知識が刷り込まれている効果もあると思う。結局、俺が不安を予期するとき、ナラティブで言うところの、天井の隅に悪魔が張り付き俺を苦しめようとしているとき、トラウマの幻覚を見せられているのだ。過去だ。しかもうんと昔の。小学三、四年生だった。そんな昔のことだが、嵐のようなあの恐怖感、しかも今やその本質はなく、擬似的なそれでもって心を掻き乱す。だから、後悔、不安、恐怖、恨み、ネガティブで死にたくなるような感情が、あの時見た景色や環境に投影される。だから、本当のことを言えば、臨海学校も、学校の教師も、不本意な空腹で締め付けられる消化器の痛みも、集団生活も、遠出も、俺の感情を直接揺さぶることなんて、今も昔もあり得ないのだ。予期不安は、どこまでいっても実態がない。もったいない。旅行なんかに行こうとすると、どうしてもそれがチラつくんだけど、もったいない。気にする価値もないな、と割り切って、楽しんでしまえばいいとおもう。残念だけど、もういない。怖がっていた自分も、怖かった記憶も、もう過去なのだから。